Quantcast
Channel: HuffPost Japan - Athena2 - All Posts
Viewing all 63970 articles
Browse latest View live

「何を言うかより、誰が言うか」が大事。でもそれだけでいいの…? これからのインフルエンサーマーケティングを考えよう【イベント開催】

$
0
0

「何を言うかより、誰が言うか」ーーー

大量の情報が溢れるネット社会において、人びとはいつも情報の発信者に注目しています。

企業が消費者とのコミュニケーションを考える際には、「何を」、「誰が」、伝えるかを吟味しなくてはなりません。

ハフポスト日本版では、「動画」と「インフルエンサー」を切り口としたマーケティングをテーマに、無料のイベントを2月28日(水)に開催します。ぜひお気軽にご応募ください。

influence marketing

ネットで大きな影響力を持つインフルエンサーに今、新しい潮流が生まれ始めています。

instagramを飛び出して活動の場を広げている人もいれば、企業理念に寄り添うアンバサダーとして活躍する人もいます。

インフルエンサーの力を借りて、企業が消費者に思いを伝えるにはどうすればいいのか。

ハフポスト日本版では、インフルエンサーマーケティングをより効果的にする手法の一つとして、動画に注目してみたいと思います。

業種やサービスのジャンルを問わず、企業がよりストーリー性のある手法を模索していくために、「動画×インフルエンサー」について話し合ってみませんか。

本イベントではUUUM(ウーム)株式会社とタッグを組み、動画を利用した #これからのインフルエンサーマーケティング について、マーケティングの専門家、企業のブランドマネジメント担当者、インフルエンサー(YouTuber)プロダクションプランニング担当者、三者の視点を基軸に、イベント参加者の皆さんと考えます。

「新たなメディア戦略を編み出したい」

「すでに自社でインフルエンサーを起用しているが、今後の方向性を探っている」

「インフルエンサー企画を通したいが、決裁権者にアピールするためのティップスが欲しい」

「実際にどんな企業が、どのように、動画PR開拓をしているのか」

多様な方向性を探る方々に、ぜひご参加いただきたいと思います。

●日時  2月28日(水) 19時〜21時

●場所  朝日新聞社メディアラボ渋谷分室(東京都渋谷区神宮前6-19-21 ホルツ細川ビル4階 渋谷駅から原宿方面へ徒歩5分)

●申込締切 2月22日(木)

●参加人数 50名(応募者多数の場合抽選)

●参加費 無料

●参加特典 ハフポスト日本版グッズプレゼント、UUUM株式会社からのプレゼント(内容未定)、ドリンク・軽食サービス

●応募方法 こちらのリンク先にてお申し込みください

※イベント模様の撮影がございます。後日、ハフポスト日本版サイト等で個人が特定できない状態で画像を掲載させていただくことがあります。

●登壇者

家弓 正彦 (かゆみ・まさひこ)

株式会社シナプス 代表取締役

1959年生まれ。松下電器産業株式会社にて、FA関連機器のマーケティングを担当し、広くマーケティングの現場を経験。その後、三和総合研究所を経て、有限会社シナプスを創設。

経営戦略、マーケティング戦略を中心としたコンサルティングに従事。同時に、「マーケティング・カレッジ」を立ち上げ、マーケティングに特化したビジネスマン教育事業に取り組む。マーケティング分野での豊富な教職経験も有する。

井上朋子(いのうえ・ともこ)

BMW Group Japan

BMWブランド・マネジメント・ディビジョン ブランド・コミュニケーションズ サブライン・マネジャー

1985年大阪府生まれ。外資系広告代理店にて某化粧品のグローバルコミュニケーション戦略・制作を担当。BMW Groupに2016年3月に入社。最初は大阪の直営ディーラーでマーケティングマネジャーを勤め、2017年6月にBMW Group Japanへ転籍。現職ではモデルローンチを含むキャンペーン全体を実施・管理。

市川義典(いちかわ・よしのり)

UUUM株式会社

映像音響会社、メディアレップを経て2015年UUUM入社。メディアプラン設計や企画開発などの経験を活かし、企業とYouTubeクリエイターのコラボレーションや、インフルエンサーへの制作支援、マーケティングにおける動画活用の啓蒙活動に従事。

司会者

林 亜季(はやし・あき)

ハフポスト日本版パートナースタジオ

チーフクリエイティブディレクター/エディター。

1985年、福井県出身。2009年、朝日新聞社入社。記者として高松総局員、阪神支局員兼宝塚支局長を経て、メディアラボで新規事業開発に携わる。経済部記者を経験した後、17年7月から現職。


もしスティーブ・ジョブズが日本の工場で働いたら? 出口治明APU学長がめざす、これからの人材教育

$
0
0
Apple共同創業者・故スティーブ・ジョブズ氏(左)と立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長

「大学は、10年後の日本を映す先行指標だと思うんです」

そう語るのは、立命館アジア太平洋大学(APU)学長・出口治明さんだ。1月に「ライフネット生命保険」創業者から大学の学長へ。異例の転身は大きな話題となった。

世界約90カ国から約6000人の学生が集まるAPUで、出口さんはどんな教育を目指すのか。そのヒントは、ロンドン駐在時代に出会ったイングランドの初等教育にあるという。「人は一人ひとり、みんな違う」。APUが目指すダイバーシティの形とも通じる。

学長就任から1カ月を迎えたいま、出口さんが思い描く人材教育について聞いた。

■「大学こそがダイバーシティの母体になるべき」

――学長の選考過程で、選考委員会にミニ講演をされたそうですね。どんなことを話されたのでしょうか。

簡単に言えば、日本の置かれている現状って「貧しくなる」か「高齢化で出ていくお金を取り戻す」しかないということですね。

世界で最も高齢化が進んでいる国ですから、なにもしなくても1年経てば1つ歳をとって出費がかさむ。予算ベースで年間5000億円ずつ出費が増えていくわけです。そうなると、「貧しくなる」か「その分を取り戻す」かの2択しかない。

「取り戻す」ということは経済成長を目指すということです。単純にいえば人口×生産性。でも、人口は簡単には増えない。そうなると「貧しくなる」か「生産性を上げる」かの2択しかない。

生産性を上げるために大事なのは「長時間働いてもあかん」と自覚することです。アイデアやダイバーシティが大事です。

僕は、大学は10年後の日本社会を映す先行指標だと思うのです。大学で学んで、色々な発想を得た人が、社会に出て働き、大学で行った基礎研究が将来の日本の競争力のもとになる。

だから大学こそがダイバーシティの母体になるべきです。そうでないと、馬車馬のように働いても、もう生産性が上がらない。僕はそのように社会を見ていますよと、そんなことを話しました。

■「東大だけが頑張っても、日本の大学の地位は上がらない」

東京大学の本郷キャンパス内にある安田講堂

――確かに、大学って将来に向けて種を蒔く時期なんでしょうね。

僕自身は、(イギリスの教育専門誌が発表する)THE世界大学ランキングでトップ100校の中に日本からわずか2校しか入っていないことが悲しいし、恥ずかしい。日本の経済規模とか人口を考えたら、こんなもんじゃないだろうと。10校くらい入っても全然おかしくないですよね。

でも、それは個々の大学が切磋琢磨して、世界の中での地位を上げていくことでしか成し得ないと思うのです。

山と一緒で、裾野が広くならなければ頂上は高くならない。だから、東大だけが頑張っても上がるわけでもない。日本の大学全体の裾野が広くなって、みんなが競争することによって、日本の大学全体の地位が上がっていくと思うのです。

すでにAPUは、国際的な機関から認証を得ています。例えば、アメリカのマネジメント教育の国際的な認証評価機関に「AACSB」というのがありますが、日本で認証されたのは慶應義塾大学大学院と名古屋商科大学とAPUの3校しかない。

こうした国際的な認証を受け、APUは2017年のTHE世界大学ランキング日本版で24位になりました。創設わずか17年ですよ。立命館の本体が22位ですので、これはすごいことだと思っています。

APUの先輩のみなさんが、がんばってここまで育ててきたものを、さらに上を目指してもっとランクを上げていく。それが僕の仕事だと思っています。

■日本に足りないのは「中長期的なビジョン」

――目先の目標ではなく、日本の大学全体の地位を上げることを考えている。

日本の経営者は、中長期のビジョンをつくることが苦手ですよね。ある企業の経営者に話を聞いたら、「次の経営計画は3カ年で考えている」と。

でも、国連ではSDGs(持続可能な開発目標)という2030年に向けた壮大なプランを作っています。

APUでは2年ほど前に、是永駿・前学長の下で「2030年ビジョン」をつくっています。APUで学んだ人が世界各地に散っていって、それぞれの持ち場所を見つけて、そこでAPUで学んだことをベースに行動を起こして世界を変えていくというプランです。

創設わずか17年で、卒業生およそ1万5000名が140ほどの国に展開し、がんばっている。一つの大学から140の国に人材が散らばっているって、すごいことだと思います。

APUの外観

別府にあるAPUのキャンパスに初めて行ったときは、約90の国から若者が集まってる様子をみて「若者の国連みたいだなぁ」と感じました。

ダイバーシティあふれる環境で学べる日本人の学生も、すごくいいチャンスを与えられている。そんな大学のかじ取りを任せられたからには、大学の地位を少しでも上げていきたい。

イギリスの大学評価機関QS(クアクアレリ・シモンズ社)の世界ランキングでは、APUはまだ200番台の終わりのほうですけれど、これを200番台の前半に、次は100番台に。それから100番以内へと着実に上げていくことを目指してがんばっていきたいと思います。

■「最もグローバリゼーションが必要な国は、日本だ」

1853年7月、ペリーの浦賀来航(ペリーの日本訪問報告書に掲載されたペリー上陸の模様)

――生命保険畑をずっと歩まれてきたので、違う業界のトップになることに不安はありませんでしたか。

もちろん知らない世界ではあります。でも、「知らない」というのはファクトなので、今から勉強していくしかない。

不安に思ったら不安が解消するかといえば、解消しないですよね。過去は変えられないし、変えられるのは今日からしかない。これから一所懸命に学んでいきたいと思います。

日本は、近代の高度産業社会を基礎づけた3つの要素、化石燃料も鉄鉱石もゴムも持ってないわけですから、むしろ先進国の中では1番にグローバリゼーションに対応していかないと、栄えることはできない国です。

アメリカのように化石燃料が「山ほど出るで!」という国は自国ファーストで生きていくこともできるでしょう。でも、日本は平和な世界を築き、その中で自由に交易をやることによって、豊かな国をつくるしかないのです。

世界の先進国の中で、最もグローバリゼーションが必要な国は日本だと思っています。

世界を目指せる最先端の大学で、新しいチャレンジする機会が与えられたということは、とて楽しいことです。僕自身、本当にドキドキ、ワクワクしていますよ。

■「人間、一人ひとりが違うことは当たり前だ」

――APUのように多様性を重んじる教育機関がある一方、生まれつき茶色い髪の生徒に黒染めを強要した高校があったという報道もありました。多様性や個性が認められる社会になるために、日本には何が必要なのでしょうか。

めちゃくちゃな話ですよね。

多様性については、僕が日本生命時代にロンドンに駐在していたときに経験したエピソードが参考になると思っています。

当時、僕は日本生命のロンドン事務所長を勤めながら、日本人学校と日本人向けの病院の管理を担当する日本人会の理事もやっていました。

その時に知った、ロンドンの幼児教育の話がとても印象に残っています。

ロンドンの幼稚園では、はじめにまずクラスの全員をお互いに向かい合わせに立たせて、相手をじっと見つめさせるんですよ。

――見つめさせるだけ?

はい。子どもたちはクラスの全員とそれをやる。終わったら先生が「同じ人はいましたか?」って聞くんです。そうしたら、一卵性双生児がいない限り「みんな違う」と答えるわけです。

そして先生は次の質問を出すんです。「じゃあ、考えてることは一緒ですか、違いますか」って。

すると子供達は「外が違うんだから、中も違うよね」と答えるわけです。そして「それなら感じたことや思ったことは、言わなければ相手に伝わらないよね」と、みんな納得する。

「一人ひとりが違うことは当たり前だ」と小さな頃から教えるんですね。これがイングランドの教育だったんです。

――面白いですね。

一方で、日本は戦後、製造業の工場モデルが社会を引っ張ってきた。製造業の工場モデルにふさわしい日本人を育てようとした。

「みんなで決めたことは守る」「協調性が高い」「空気を読める」という能力なんですよ。そうでないと(工場の)ベルトコンベアーが止まりますよね。でも、例えば、ベルトコンベアーの前に(Apple創業者の)スティーブ・ジョブスを立たせたらどうなると思います?

――指示は聞かないかもしれませんね...(笑)

ベルトコンベアーが止まっちゃいますよね(笑)。でも、いまや日本の産業における製造業の割合は4分の1を割り込んで、サービス産業が中心になっている。ジョブスのような人間を育てなければ、この国の陽はまた昇らないんですよね。構造的にそういう状況に来ている。

もっともっとダイバーシティにあふれた人材の厚みや、とがった人間が大事になる。そのためにAPUはあるんだと思っています。もっともっと、自分のとがった個性を大事にする学生と教育や研究をやることは、日本のためにもなるし、世界のためにもなると思ってます。

「2030年ビジョン」にあるように、ここで学んだ人が行動して、それぞれの持ち場で世界を変えていくんだと信じています。

羽生結弦、初の金メダルから優勝9回。華麗なる演技を振り返る(画像)

$
0
0
ソチ五輪で金メダルに輝いた羽生結弦選手(2014年2月)

羽生結弦の新たなる伝説が誕生するか......。

平昌オリンピックのフィギュアスケート男子ショートプログラム(SP)が、2月16日午前10時に始まる。

前回ソチ大会で、日本男子初となる金メダルに輝いてから4年。その間に主要大会で9回の優勝を飾るなど、五輪連覇に向けて着々と成果を積み重ねてきた。

その華麗な演技を写真で振り返る。

2013-14年シーズン

世界選手権

フィギュアスケート男子フリーで演技する羽生結弦(ANA)=2014年3月28日、埼玉・さいたまスーパーアリーナ 

2014-15年シーズン

GPファイナル

男子フリーで演技する羽生結弦(スペイン・バルセロナ) 2014年12月13日

全日本選手権

フィギュアスケート男子フリーでジャンプする羽生結弦(ANA)=2014年12月27日、長野市のビッグハット 

2015-16シーズン

GP NHK杯

男子フリーの演技をする羽生結弦(ANA)=2015年11月28日、長野・ビッグハット 

GPファイナル

男子フリーで演技する羽生結弦(スペイン・バルセロナ) 2015年12月12日

全日本選手権

フィギュアスケート男子ショートプログラム(SP)で演技する羽生結弦(ANA)=2015年12月25日、北海道・札幌市の真駒内セキスイハイムアイスアリーナ 

2016-17シーズン

NHK杯

男子フリーで演技する羽生結弦(ANA)=2016年11月26日、北海道札幌市の真駒内セキスイハイムアイスアリーナ 演技する羽生結弦選手

GPファイナル

男子ショートプログラム(SP)で演技する羽生結弦(フランス・マルセイユ) 2016年12月08日

世界選手権

男子ショートプログラム(SP)で演技する羽生結弦(ANA)=2017年03月30日、フィンランド・ヘルシンキ 

東京都が公表した地震危険度ランキング、100位までのリスト。あなたの地域は?

$
0
0
東京都が発表した「総合危険度ランキング図」

東京都は2月15日、大地震が起きた時にどれぐらい危険かを地域ごとに「地域危険度」を公式サイトで公表した

建物倒壊や火災の起きやすさ、救助活動の難しさの3点から評価した「総合危険度」が最も高かったのは、前回調査に続き荒川区町屋4丁目だった。木造住宅が密集して狭い路地が多く消防車が入りにくいのが原因と見られる。ランク上位は、地盤が軟弱で木造住宅が密集する都東部の下町地域が多かった。

危険度は、ほぼ5年に1度公表しており、今回で8回目。都内で震度6強の地震が発生した場合を想定して、市街地5177地域を対象に調査した。

ハフポスト日本版では、総合危険度で最も順位が高かった地域100位までのリストを作成した。あなたが住んでいる地域が入っていたら、地震への備えに注意して欲しい。

1 荒川区 町屋4丁目

2 足立区 千住 柳町

3 荒川区 荒川6丁目

4 足立区 千住 大川町

5 墨田区 墨田3丁目

6 北区 志茂4丁目

7 墨田区 京島2丁目

8 江東区 北砂4丁目

9 大田区 羽田6丁目

10 足立区 千住 元町

11 足立区 柳原2丁目

12 墨田区 押上3丁目

13 墨田区 東向島1丁目

14 大田区 羽田3丁目

15 墨田区 八広3丁目

16 江東区 北砂3丁目

17 足立区 千住 龍田町

18 北区 志茂5丁目

19 荒川区 荒川3丁目

20 足立区 関原2丁目

21 葛飾区 東四つ木3丁目

22 大田区 西蒲田4丁目

23 荒川区 南千住1丁目

24 足立区 関原3丁目

25 荒川区 西尾久6丁目

26 北区 岸町2丁目

27 足立区 中川2丁目

28 足立区 本木 北町

29 墨田区 墨田5丁目

30 足立区 千住 寿町

31 荒川区 町屋2丁目

32 中野区 若宮1丁目

33 荒川区 西尾久5丁目

34 足立区 西新井本町1丁目

35 大田区 仲六郷2丁目

36 墨田区 京島3丁目

37 中野区 野方2丁目

38 北区 上十条5丁目

39 荒川区 東尾久6丁目

40 荒川区 東尾久2丁目

41 墨田区 八広4丁目

42 葛飾区 堀切5丁目

43 足立区 本木 東町

44 墨田区 立花2丁目

45 江東区 大島7丁目

46 足立区 千住4丁目

47 品川区 西大井3丁目

48 北区 上中里3丁目

49 葛飾区 東立石4丁目

50 北区 栄町

51 荒川区 南千住5丁目

52 大田区 南蒲田3丁目

53 墨田区 東向島6丁目

54 大田区 西蒲田5丁目

55 葛飾区 鎌倉4丁目

56 台東区 根岸4丁目

57 葛飾区 新小岩3丁目

58 江戸川区 平井2丁目

59 江東区 北砂6丁目

60 杉並区 天沼1丁目

61 新宿区 若葉3丁目

62 足立区 興野2丁目

63 足立区 本木 西町

64 杉並区 高円寺北3丁目

65 品川区 豊町5丁目

66 品川区 大井7丁目

67 荒川区 町屋3丁目

68 墨田区 墨田4丁目

69 大田区 西六郷2丁目

70 江東区 亀戸5丁目

71 荒川区 荒川2丁目

72 葛飾区 高砂3丁目

73 葛飾区 西新小岩5丁目

74 足立区 日ノ出町

75 足立区 本木2丁目

76 杉並区 方南1丁目

77 墨田区 墨田2丁目

78 荒川区 西尾久2丁目

79 葛飾区 堀切2丁目

80 中野区 大和町4丁目

81 杉並区 成田東1丁目

82 大田区 西蒲田3丁目

83 台東区 谷中3丁目

84 荒川区 東尾久1丁目

85 中野区 大和町2丁目

86 大田区 西蒲田1丁目

87 品川区 豊町4丁目

88 足立区 興野1丁目

89 足立区 千住 仲町

90 江戸川区 西篠崎2丁目

91 中野区 若宮2丁目

92 足立区 梅田3丁目

93 豊島区 駒込7丁目

94 足立区 中川3丁目

95 墨田区 八広1丁目

96 江戸川区 南小岩6丁目

97 足立区 西新井本町3丁目

98 北区 十条仲原4丁目

99 新宿区 赤城下町

100 大田区 西六郷1丁目

フランスに謎の木登り男あらわる

フィギュア男子の衣装から、その時代が見えてくる。70年代のオリンピックから振り返り(画像)

$
0
0

優雅でスタイリッシュで、そして強さや輝きも感じさせるフィギュアスケートの衣装。

華やかな女性選手の衣装が注目されがちだが、男性の衣装も負けてはいない。

アメリカのジョニー・ウィアー選手。

興味深いことに、選手たちは派手過ぎる衣装の着用を禁じられている。国際スケート連盟のルールブックには「フィギュアスケートの衣装は控えめで品位があり、スポーツ競技として適切なものとする。派手すぎるものや凝りすぎた衣装は禁じる」と書かれている

ただ、ある人は派手過ぎると思った衣装を、他の人は美しいと感じるというのはよくあること。だから、ルールは簡単には破られない。

これまで世界中の選手たちがキラキラ輝く衣装やアニマル柄の衣装といった様々なデザインの衣装で、競技してきた。

平昌オリンピックでも、選手たちはさまざまな衣装を身につけている。これまでオリンピックのリンクを飾ってきた男子選手の衣装を、1970年代から振り返ってみよう。

1. トーラー・クランストン

1976年 インスブリックオリンピック。

2. ロビン・カズンズ

1980年、レークプラシッドオリンピック

3. スコット・ハミルトン

1984年、サラエボオリンピック

4. ブライアン・ボイタノ

1988年、カルガリーオリンピック

5. ブライアン・オーサー

1988年、カルガリーオリンピック

6. カート・ブラウニング

1992年、アルベールビルオリンピック

7. ヴィクトール・ペトレンコ

1992年、アルベールビルオリンピック

8. エルビス・ストイコ

1994年、リレハンメルオリンピック

9. オレグ・タタウロフ

1994年、リレハンメルオリンピック

10. アレクセイ・ウルマノフ

1994年、リレハンメルオリンピック

11. マルグス・ヘルニッツ

1998年、長野オリンピック

12. イ・キュヒョン

1998年、長野オリンピック

13. フィリップ・キャンデロロ

1998年、長野オリンピック

14. イリヤ・アレクサンドロヴィチ・クーリック

1998年、長野オリンピック

15. トッド・エルドリッジ

2002年、ソルトレイクシティオリンピック

16. イワン・ディネフ

2002年、ソルトレイクシティオリンピック

17. 本田武史

2002年、ソルトレイクシティオリンピック

18. ドミトリー・ドミトレンコ

2002年、ソルトレイクシティオリンピック

19. ヴィクトール・ファイファ

2006年、トリノオリンピック

20. エヴァン・フランク・ライサチェ

2006年、トリノオリンピック

21. イリヤ・クリムキン

2006年、トリノオリンピック

22. ジョニー・ウィアー

2006年、トリノオリンピック

23. シュテファン・リンデマン

2006年、トリノオリンピック

24. ケビン・ヴァン・デル・ペレン

2006年、トリノオリンピック

25. ヴィクトール・ファイファー

2006年、トリノオリンピック

26. ゲオルゲ・チッパー

2006年、トリノオリンピック

27. ショーン・ソーヤー

2006年、トリノオリンピック

28. ステファン・ランビエール

2006年、トリノオリンピック

29. アントン・コワレフスキー

2006年、トリノオリンピック

30. 高橋大輔

2006年、トリノオリンピック

31. ブライアン・ジュベール

2006年、トリノオリンピック

32. エフゲニー・プルシェンコ

2010年、バンクーバーオリンピック

33. ジョニー・ウィアー

2010年、バンクーバーオリンピック

34. ジェイソン・ブラウン

2014年、ソチオリンピック

35. 羽生結弦

2014、ソチオリンピック

36. アダム・リッポン

2018年、平昌オリンピック

37. ミハイル・コリヤダ

2018年、平昌オリンピック

38. 田中刑事

2018年、平昌オリンピック

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。

女性専用車両に男性数人が乗り込みトラブル。通勤ラッシュ時の千代田線が12分遅れる

$
0
0

女性専用車両についての注意書き=千代田線・国会議事堂前駅=

東京メトロ・千代田線の国会議事堂前駅で2月16日午前8時38分ごろ、停車中の女性専用車両に男性数人が乗車してトラブルとなり、電車が12分遅延した。東京メトロ広報は「それ以上の詳細は、現在調査中」としている。

今回の一件との関連は不明だが、「女性専用車両」に反対する男性が、あえて女性専用車両に乗り込んでトラブルになるケースは以前から一部で起きている。ネット上には、2月16日に男性が女性専用車両に乗れるか確認すると宣言しているグループもあった。

公式サイトによると、東京メトロは、「痴漢をはじめとする迷惑行為の抑止」などの理由で女性専用車両を導入。駅では「女性専用車は、女性のお客様のほか、小学生以下のお客様、おからだの不自由なお客様とその介護者の方も乗車できます」と掲示している。

東京メトロ広報によると、「女性専用車両のルールには法的強制力はなく、このルールでお願いしますとご理解を求めているもの」だという。千代田線では、朝7時10分に代々木上原/綾瀬を出発する列車から、午前9時30分まで実施している。

羽生結弦、ショートプログラムで暫定トップ 「異次元の強さ」で復活遂げる(画像集)

$
0
0

平昌オリンピックは2月16日、フィギュアスケートの男子ショートプログラムがあり、羽生結弦が111.68点を記録。自己ベストに迫る高得点で暫定トップに立った。

この日、羽生は白とブルーの美しいグラデーションで仕立てられた衣装で登場。羽生の名が呼ばれると、会場は大歓声に包まれた。

羽生はショパン「バラード第1番」の情熱的なピアノにのせて滑走。冒頭で4回転サルコーに成功し、トリプルアクセル、4回転と3回転の連続トーループも余裕をもって決めた。

羽生は自信満々の表情でフィニッシュポーズ。会場は黄色い歓声に包まれた。

約4カ月のブランクを感じさせない滑走で、羽生は世界に復活を印象付けた。TBSのアナウンサーは「異次元の強さ」と讃えた。

得点は111.68点。男子では66年ぶりとなる五輪連覇に好発進を切った。

日本勢では宇野昌磨も健闘。ヴィヴァルディの「四季―冬」にのせて、冒頭の4回転フリップを成功。

現時点で2位は98.98点でドミトリー・アリエフ(OAR)、3位は90.01点でパトリック・チャン(カナダ)。


「HUAWEIとZTEのスマホは使わないで」CIA、FBI、NSAのトップら、アメリカ国民に呼びかけ

$
0
0
2012年10月10日、中国・湖北省武漢市のファーウェイのカウンターで顧客を待っている女性

中国企業のファーウェイとZTEのスマートフォンを使わないように、アメリカの情報機関の高官が国民に呼びかけた。

CNBCによると2月13日の上院情報委員会で、中央情報局(CIA)や、連邦捜査局(FBI)、国家安全保障局(NSA)などの高官6人が出席。アメリカの消費者は、この2社の製品を使うべきでないという考えを示した。

ZDnetによると、この席でFBIのクリストファー・レイ長官は以下のように話したという。

価値観の違う外国政府に借りがある企業・組織が、国内の通信ネットワークで影響力を持つリスクを深く懸念している。
私たちの通信インフラに、プレッシャーをかけたり、影響を及ぼす能力を与えてしまう。
悪意を持って、情報を改ざんしたり、盗んだりできる。スパイ行為だってできるだろう。

ロイターによると、共和党のトム・コットン上院議員とマルコ・ルビオ上院議員は7日に、HUAWEIとZTEの通信機器について、アメリカ政府の購入やリースを禁じる法案を提出した。アメリカ当局者へのスパイ行為に対する懸念を理由としている。

セクシーすぎる観葉植物が発見された

$
0
0

自然はときに、人のカラダとびっくりするほど似ていることがある。

ソーシャルブックマークサイト「Reddit」に、あるユーザーが「とても示唆的な」観葉植物の写真を嬉々として投稿した。

その幹のかたちは、クネっと曲がった、人のお尻から太もも部分にソックリなのだ。

米スタイル誌「Paper」で大きな話題となったアメリカのセレブ、キム・カーダシアン(37)の表紙のパロディなど、アイデアあふれるコラボ画像がさっそくネットを賑わせた。

MRW I am a bonsai and I just got a trim

ハフポスト・フランス版より翻訳・加筆しました。

羽生結弦「僕はオリンピックを知っている」 フリーに向けて、熱い意気込み語る(平昌オリンピック)

$
0
0

平昌オリンピックは2月16日、フィギュアスケートの男子ショートプログラムがあり、羽生結弦が111.68点でトップに立った。約4カ月ぶりの実戦とは感じさせない完璧な演技で、自己ベストに迫る高得点をマークした。

試合後のインタビューで、羽生は「僕はオリンピックを知っていますし、元オリンピックチャンピオンなので」と、17日のフリーに向けて意気込みを語った。

この日、羽生は白とブルーの美しいグラデーションで仕立てられた衣装で登場。冒頭で4回転サルコーに成功。トリプルアクセル、4回転と3回転の連続トーループも余裕をもって決めた。

試合後、TBSとのインタビューでの一問一答は以下の通り。

――ものすごい演技でした。

そうですね、特に不満な点もなく、自分自身も疑問に思うエレメンツもなく、嬉しく思っています。

滑走順だとか、自分のサポートメンバーとか、または応援しているファンの方々、日本の方々含めて世界中の方々、本当に「自分は恵まれているなと」いうふうに思いながら今日滑ることができたので、また明日に向けてやりたいなと思っています。

――どうして久しぶりの試合、オリンピックでこんな演技ができたんですか?

僕はオリンピックを知っていますし、大きいこと言うなと言われるかもしれないですけど。

やっぱり僕は元、今は「元」って言えばいいのかな。元オリンピックチャンピオンなので、やっぱその、リベンジしたい...リベンジしたいって、オリンピックチャンピオンと言った後にリベンジしたいっていうのはおかしいですけど(笑)。

自分にとっては(ソチ五輪の)フリーのミスが、やはりここまで4年間頑張って強くなったひとつの原因だと思っているので、また明日に向けてリベンジしたいなという気持ちがとにかく強いです。

――明日にむけて一言。

とにかくやるべきことはやってきましたし、2カ月間滑れなかった間も、とにかく努力をし続けました。その努力をしっかり、結果として出したい。

私が「ノルウェイの森」を生きたとき【これでいいの20代?】

$
0
0

私の本当の名前は鈴木綾ではない。

かっこいいペンネームを考えようと思ったけど、ごく普通のありふれた名前にした。

22歳の上京、シェアハウス暮らし、彼氏との関係、働く女性の話。この連載で紹介する話はすべて実話にもとづいている。

個人が特定されるのを避けるため、小説として書いた。

もしかしたら、あなたも同じような経験を目の当たりにしたかもしれない。

ありふれた女性の、ちょっと変わった人生経験を書いてみた。

◇◇◇

両親が別居し始めたと知ったとき、衝撃を受けた。東京に来る前の記憶が私の中から消えて

「子供の頃の幸せな世界」が思い出せなくなった。戻る家も、想い出も、私が離れた間にみんな消えてなくなった。

私は過去の自分と大切な人たちのことを忘れたまま、私の過去に無関心な人たちと東京の摩天楼で毎日仕事をしてた。

そんな自分に強烈な自己嫌悪がわいた。

彼氏の太郎に「大学の友達に会いに行くから」と言って、金曜日の夜に新幹線に乗った。目的地についたら、ちひろは改札で待ってくれてた。彼の顔を見たとき、突然、過去のことを思い出した。

ーーーー

大学時代、初めて村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだ。秋だった。そして、街の本屋さんはどこも「ノルウェイの森」を大量に店舗の前に積み重ねて、冬に公開される実写版の広告を出してた。私は上・下を買ってきて一晩で読んだ。高校時代は受験勉強で忙しかったせいで、小説に没頭するのは何年かぶりだった。

ノルウェイの森は簡単にいうと生と死の話だ。主人公のワタナベは大学のため上京し、そして17歳に自殺した高校時代の親友の元彼女直子にばったり会ってゆるく付き合うことになる。直子は突然姿を消して精神病の療養所に入る。と同時にワタナベは、直子とは正反対の性格の明るくて自信家な女性、緑に会う。彼はどちらの女性と一緒に将来を過ごせばいいか迷う。途中で同じ寮に住む東大生の永沢さんと仲良くなる。永沢さんの誘いでガールハントする。私はこの小説が読みやすいのに、内容が奥深いところに惹かれた。

「ノルウェイの森」のおかげでアメリカ人の留学生クリス君に知り合った。大学の本屋さんで彼が英語版を買うのを見て、私は自己紹介をした。彼は実写版を見るために日本語の勉強を頑張りたいと言った。全く縁のなさそうな二人だったけど、いい友達になった。

学校が終わった後、二人で何時間も街を歩いた。

その時、山登りが大好きだったクリス君はでっかい山登り用のリュックを背負ってて、私の少し後ろを歩いて写真を撮った。歩くのに飽きたら、近くのコンビニでコロッケを買って公園のベンチで軽食をした。

クリス君のホストファミリーはお金がなくて、いつも夕飯の量が少なかったし、肉もあまり出なかった。運動するのが大好きなクリス君は2ヶ月で激痩せしてしまった。それ以上痩せるのが嫌だったので、彼はいつもコロッケを三個とコーヒー牛乳の大きいサイズを買った。その時、ヌジャベスが亡くなって、カート・コバーンが亡くなって、世界を変えると思った革命的なアーティストが誰も彼もみんな亡くなって残念だという話と「ノルウェイの森」の話をした。

クリスくんには2人、好きな女性がいた。まるで小説に出てくる「直子」と「緑」に似ている二人だという。「直子」は彼の彼女で当時ドイツで留学してた。お天気屋な女性で、スカイプで話そう話そうといつも言ってたくせにスカイプで話すときになったら、ほとんど何も言わずずっとため息をついてた。一方で、彼は日本語の授業で一緒の中国人である「緑」のことも気になってた。彼女は山登りもウォータースポーツも大好きで、よくクリス君にメールをした。

ある日、授業の後に彼女をホストファミリーの家まで送ってあげたとき、二人はキスした。

「ね、永沢、どっちを選べばいい?」とクリス君にある日聞かれた。

「それは緑でしょ。結末知ってるから。」

彼に「永沢」と呼ばれたとき、それって結構私の感性に合ってるかも、と思った。「ノルウェイの森」の登場人物の中で、私は永沢が一番共感できた。

大学に入って、人生で初めて「異性が私を魅力的に感じてる」ってことに気づいた。

高校時代にかっこよすぎて絶対にこっちから声をかけるなんてできなかった男性から声をかけられるようになった。

肌の焼けた男性。カバンをかっこいいほど中途半端に持ってた男性。この新しい「男という人種」のことをもっと知りたかった。

それからたくさんの男性と付き合うようになった。もちろん好きだから付き合ったんだけど、同時に情報を収集したかったから付き合ってみた。女性に夢中になってた彼達を簡単に操ることができた自分を遠くから観察してた。

将来、その知識を持って大きな街、「でかい入れ物」のなかで、自分の能力を試したかった。

クリス君に友達のちひろのことを笑い話にして話した。

ちひろに知り合ったとき、彼はすでに「ノルウェイの森」を読んでた。彼はあまり村上ファンじゃなかったけど、小説の実写版を楽しみにしてた。他の男性と違ってちひろには「男」として私の興味を引く要素はゼロだった。ただ、私が付き合ったどの男性と過ごした時間よりちひろと文学やミニシアターの話をして過ごした時間の方が100倍も楽しかった。

ちひろにもクリス君と同様、自分の「直子」がいた。私がなかなか想像できなかった、横浜で既に社会人になってうつ病を抱えてた女性。だけどちひろとあまりそういう話をしたくなかった。

この微妙な均衡のとれた世界がいつまでもずっと続いてほしかった。

そして、ある日。

珍しく学生には若干丈の合わないプリン屋さん「パステル」にちひろに誘われた。

抹茶プリン一つ。なめらかプリン一つ。

「綾さんのことが好きです。」

「違うだろう。あたし、永沢なんだから。」

私は怒って断って帰った。

均衡を勝手に崩したちひろが大嫌いだった。すぐに私のことが好きになっちゃった男性たちみたいになってほしくなかった。一生本と映画の話ができる友達でいてほしかった。ピュアなちひろは私みたいに男性と遊ぶ女性と一緒にいない方がいい。

しばらく話すのをやめた。

数週間後、夜遅く図書館を出たときにばったりちひろにあった。黙って二人で駅に向かってたら、私の電話がなった。クリス君だった。

「早く〇〇墓地に来て。リリーちゃんは自殺しようとした。」

ちひろの目をみた。

「一緒に行こう。」

学校の近くの墓地に着いたら、クリス君はリリーに叫んでた。

「リリーは緑だから死ぬ権利がないよ!」

彼は彼女を抱いて、彼女が持ってた刃物をとろうとした。リリーが泣いてた。

「リリーには死ぬ理由がないんだよ。だから死ねない。死んじゃいけない。」とクリス君が力強く言った。

リリーが落ち着いたら、時間が遅くてもうクリス君の電車がなくなってた。頑張って歩けば帰れたけど、私とちひろは始発まで一緒に待っててあげようと決めた。

クリス君がでっかいリュックからマッチ箱を出してマッチ棒で小さな火をおこした。クリス君は大きなマッチ箱。彼が点けたマッチ棒の小さな火のように、リリーがポソポソと悩みごとを話し始めた。ホストファミリーに差別的なこと言われて家事をさせられた。中国に帰りたかったのに両親は日本語を勉強して日本でお金を稼いでほしかった。

リリーの話を聞きながら、つまらないことにこだわってちひろと話すのをやめた自分がバカバカしくみえてきた。心の中でちひろを許した。

4人で火を囲んで座ってペットボトルの紅茶花伝を飲んで朝を待った。

その後、クリス君は自分のホストファミリーに頼んでリリーを引き取ってもらった。

そして二週間後、クリス君とリリーちゃんはそれぞれ自分の母国に帰った。

そして、私はちひろと一緒に「ノルウェイの森」を見に行った。

同じ感想だった。コスチュームと舞台がとても鮮やかで贅沢だったけど映画にはがっかりした。本の中でとても魅力的に感じた登場人物がなぜか色褪せたようにみえた。私たちが夢で見た、自分だけのものにしたかった「ノルウェイの森」じゃなかった。

小説に感情移入しちゃう、ロマンチックな志向を捨て、私は「前を向いて歩く20代」になった。

子供の「地頭力」を育む片付けと収納

$
0
0

人間はものがつまめるようになったら、片付けの訓練を始められるのだそう。成功体験を繰り返して正しい習慣と自信、そして「地頭力」を身につけるトレーニング。小さなお子さんのいる方、必見です。

厳しい寒さも日に日に和らぎ、春の兆しを感じる頃になりました。小さなお子さんのいらっしゃる方、ぜひこの3月のうちに、4月からの新生活準備のためにお子さんと一緒に整理整頓をしてみてはいかがでしょうか。自ら考え、自ら決断をする。幼い頃から片付けを習慣にすることは、「地頭力」を育む大切なトレーニングと言えます。

今回は、子供(未就学児)にとってのモノの片付け収納と、それによって育む地頭力について、6歳児を持つ私が普段の経験と片付けアドバイザー視点の両側から書いてみたいと思います。

子どもを信頼して、まかせる勇気を
まだ自分で判断がつかないからといって、保護者が勝手にモノの取捨選択やルールを決めてしまっては、いつまでたっても一人でお片付けできる子になりません。

片付けの要不要の判断は、モノを使っている張本人が決めることです。
おもちゃは誰が使っていますか?

仮にあなたが大切にしているジュエリーを、これは「最近使っていないね、いらないモノだね」と他人に言われる......。ご自分の話に置き換えれば自明の理ですね。

未就学児であっても、お子さんが自分で、いるモノ・いらないモノの取捨選択をしなくてはなりません。親御さんはアシスト役に徹してください。

自分でしっかり選ぶ努力をするからこそ、モノを大切にする心が育まれます。
人生は取捨選択の繰り返し。幼い頃から大好きなものでトレーニングをすることは、とても有効だと考えます。

子供にとっておもちゃは宝物。宝物を使って取捨選択、判断をつける訓練をする――これこそ最高の幼児教育なのではないでしょうか。

子供のための片付け収納に有効なアイデア

色別に場所を分けて自分のスペース認識を
兄弟姉妹で同じ部屋を使用するなら、「自分の場所」が各自、明確にわかるように収納場所を工夫すると、ここは自分の場所だからきれいに整えなきゃ、という責任感が生まれます。

この写真では、色を分けて兄弟姉妹の使用場所を区切っています。
まだ字が読めないお子さんには、色で分けるとわかりやすいでしょう。

収納時のアクションは少なく、が基本
小さな子供はまだ、力も動作も大人と同じというわけにはいきません。おもちゃが片付けられない原因はもしかしたら、子供にとって片づけにくいからかもしれません。目線を子どもに合わせて、ワンアクションで片付けられるアイテムを考えてみましょう。たとえばこのような放り込みタイプの間口の広いバケツ収納などはとても有効です。

モノの住所を記載してあげましょう
「うちの子、幼稚園や児童館ではちゃんとお片付けできるんです」という親御さんの声をよく聞きます。
それにはしっかりとした理由があるのです。公の施設などは誰でもわかるように、おもちゃの住所がラベル表示されているからです。

ご自宅でも、すべてのモノに住所を決めて、小さな子どもでもわかるようにラベリングを工夫してあげましょう。まだ字が読めないお子さんには、写真や絵が有効です。

つい片付けたくなるような、遊びの感覚も取り入れて
写真の収納は、上部の棚から1、2、3と順番に規則正しく並べられています。こんなふうに、おもしろいルールを決めて子供の好奇心をそそると、片付けも遊びの一環として楽しく取り組んでくれそうですね。

風呂敷のような概念でお片付け
小さなパーツのブロックなどは、遊んでいるそばから散乱しがちで、片づけ忘れたパーツを踏んづけて痛い思いをしてしまうなんてことも起こってしまうかもしれません。写真のような、広げてそのままそこで遊べる風呂敷タイプの収納用品などを使うのも、おもしろいアイデアです。

「一人でできたよ」が生む効果
片付く仕組みづくりが整うと、親御さんがいちいち口うるさく「片づけなさい!」と言わなくても、スムーズにもとに戻すことができるようになります。

まだ片付けに対してネガティブな感情を持っていない幼い頃から、片づけを教えることはとても大きな意味があります。人はモノがつまめるようになったら片付けの訓練を始められるのです。

「一人でおもちゃを片づけられた」
「ママが笑っている。喜んでいる」
「次もがんばろう」

この毎日の繰り返しが喜びとなり、「快」を繰り返すことで習慣となります。子供にとって大切な自信につながり、それが自己肯定感を育みます。

最初はおもちゃのお片付けからスタートして、次に身支度、学用品の整理整頓と、少しずつハードルを上げていきます。我が家の6歳児は、自分の管理しているおもちゃがぐちゃぐちゃになってきたなと思うと、今では私を誘って「一緒に片付けをしてほしい」と言えるようになりました。

普段のリアルな暮らしから、学べることはたくさんあります。
子供のうちからモノについて真剣に向き合い、正しい習慣をコツコツ積み重ねる。そんな暮らしの根っこの部分こそ、大人になって大きく差が出る「地頭力」なのだと思います。

「地頭力」が養える「お片付け」についてこの春から、家族で取り組んでみてはいかがでしょうか。


文:新倉 暁子
記事提供:Houzz(ハウズ)

(2016年4月18日 Houzz『子供の「地頭力」を育む片付けと収納』より転載)

こちらの記事もおすすめ:

おもちゃ収納の写真・デザインのアイデアを見る

お片付け上手を育てる! キッズルームの収納アイデア

片付け・収納・整理整頓アドバイザーに仕事を頼むときのコツは?

我が家の「コモンスペース」、リビングの収納ルール

今年中に片付け上手になりたいあなたへ。維持できる片付けの仕組みづくり

日本人だけれど、チャクマのおばちゃんと呼ばれたい! 

$
0
0

私の好きな曲にドリカムの『大阪LOVER』があります。この歌の「覚悟はもうしてるって "大阪のおばちゃん" と呼ばれたいんよ 家族と離れてたって あなたとここで生きていきたいんよ」という一節は特に共感します。

バングラデシュで少数民族の人々と触れ合うようになってからというもの、みんなが私のことを「ナツミ ディ(姉ちゃん)」や「マシ(おばちゃん)」、「私のメイェ(娘)だ」と呼んでくれる度、喜びを感じます。

上の写真左下に小さく写る赤ちゃん。この子は、昨年10月にランガマティ県ランガパニ村のチャクマ民族友人夫妻に生まれ、私が名付け親となった「ユニコ」(過去記事リンク)です。

あれから2ヶ月経ったある日、新生児のための伝統行事「コジョイ パニ」が行われました。日本でもお宮参りやお食い初めといった行事があるように、この地域にも独特な恒例行事があるようです。今回は、そんな初めて付き添った「コジョイ パニ」についてご紹介します。

新生児の行事「コジョイ パニ」

昨年、「ユニコ」と命名させてもらった日、ユニコのお父さんから「ナツが次来たらコジョイ パニするから」と言われました。初めて聞いたコジョイ パニという言葉と存在。赤ちゃんの健康や長寿、神のご加護や将来の飛躍を願って行うものだそうです。「そんな一大イベントを、私の来訪に合わせてもいいの?」と戸惑いつつ、ついにこの時期がやってきました。

ランガマティ県にも無事入域でき、明日はコジョイ パニだ! と思っていた矢先、問題が発生しました! (日本語記事なので書いてしまってもいいでしょう......)なんと、夫婦喧嘩が勃発したのです!

前夜、急に父親が「明日はコジョイ パニしない!」と言い出し、母親は涙目で嘆き悲しんでいました。

事情はこうです。前日日中、母親が当日の心配をするがあまり、仕事中の父親に何度も電話をかけていたことにとうとう怒ってしまったのです......。私も父親の仕事現場に一緒にいたので、その忙しさは分かる。でもやっぱり、お母さん側の気苦労も分かる......。しかも口喧嘩で終わるだけならまだしも、「コジョイ パニ中止はないだろ!」と思い、私もつい怒って「明日あなたたちがやらなくても、私がやる! 絶対明日やるから!!」と宣言して、前夜は別れたのでした。

コジョイ パニ、「やる」とは言ったけれど、何をどうしたら...?

そんな大口を叩いたものの、何を準備したら良いのかなど私には分かりません。朝8時くらいから料理を始めるとは聞いたけれど、実際何を買って行けばいいのかも分からず途方に暮れていたら、チャクマの男友達が「僕は行けないけれど......」と1000タカ(1500円くらい。コジョイ パニ費用の半分に相当)を私に握らせてくれて、またもうひとりのチャクマの十代の女の子が「ナツミ ディ(姉ちゃん)、私も朝一緒に買い出し行くよ!9時から学校だけど」と、手伝ってくれることになりました。

そうして迎えた当日朝、市場に行き、生きている鶏一羽、明け方に解体されたばかりの豚の肉塊を一片買いました。次は野菜を、と思ったところで、お父さんのほうから電話があり、「ナツ、あとはもう買わなくていいよ。家にあるぶんの野菜でやるから......」と。お父さん、ちゃんとやることに気を取り直してくれたのです。

ランガパニ村の家に着くと、支度の手伝いをする近所のおばちゃんたちが準備を始めていました。「ナツはユニコを抱っこしていて」と言われたので、初めてのコジョイ パニの支度を見ながら待つこととなりました。

家を張り巡る白い糸

近所のおばちゃんたちが料理を進めながら、お父さんは家を一周くるっと巻くように白く細い糸を張っていました。

その後、前日からお母さんが頼んでいたバンテ(お坊さん)がやって来て、お供えの前に座りました。バンテは、先ほどの白く細い糸の端をもち、それをクルクルと巻き取りながら、お経を読み上げ、ユニコのための祈祷が始められました。

祈祷

祈祷が始まって、料理をしていたおばちゃんたちも手をいったん止め、みんなでバンテと向かい合う形に座り、手を合わせました。もちろん、主役であるユニコはお母さんの膝の上にいます。気持ちよさげに眠っていましたが。

お祈りの時(これがチッタゴン丘陵地帯特有なのか、仏教特有なのか、私には分からないのですが)、ここではこうして容器にお金を添えて、水をゆっくり指にあてながらぽたぽた垂れ流す......そんな行程をよく見かけます。

ユニコの両親は、準備をするあいだもまだ少しぶつぶつと言い合っていましたが、こうして共同作業もでき、大切なコジョイ パニを決行してくれて本当に良かったです。祈祷の終盤で、バンテが私たち全員に突然、葉っぱを使って「水」を何度かふりかけてきました! こうしてコジョイ パニの儀式は終了したのです。

コジョイパニの正体

ベンガル語でもチャクマ語でも、水は「パニ」と言います。だからといって、コジョイ パニの意味は長らく謎だったのですが、最後の最後で「コジョイって......?」と傍のおばちゃんに聞いてみると、写真にある、木片にも見える、茶色い皮のようなものをがさごそ取り出し見せてくれました。

おばちゃんはそれを千切って水に浸け、「これがコジョイ パニ」と見せてくれました。コジョイ パニは、行事の名称であり、さっき振りかけられた水の名前でもあったのです。一緒に浮かんでいるオレンジ色の欠片も、御利益あるとされている植物のひとつだそう。

作り方を見せてくれた後、おばちゃんはお坊さんの真似までして、私ひとりに対してコジョイ パニを笑いながら振りかけきたのでした。

お守りの糸

ちなみに、先ほど登場した白い糸が、ユニコや私の手首にも巻かれています。このあたりでは、バンテが祈祷した後、その糸をもらい、みんなこうしてお守りにするのです。

ご馳走を振る舞う

バンテ(お坊さん)たちへご馳走を捧げ、彼らが去った後は、ご近所さんや友人などの招待客へご馳走を振舞いました。人が入って来てはユニコの顔を見て、親たちと少し話し、食事をして、帰っていく......その連続の時間がしばらく続き、ユニコのコジョイ パニはこれにて全て終了。

バングラデシュのお正月(4月のビジュやサングライなど ※過去記事リンク)もそうですが、現代日本と比べて、家族の垣根を越えて行事が行われるところは、私がこの場所を好きな理由のひとつです。というより、同じ村や同じ民族であれば、それはもう彼らにとっては「家族」なのかも! だからかもしれませんが、みんな誰かを私に紹介してくれる時も、友人や先輩・後輩のことを「お兄ちゃん」とか「妹だ」といって紹介してきます。

一方で、この行事をきちんとやっておかないと、その後お母さんは、近所の家でコジョイ パニがあった時にも行けないのだとか......。こういった人と人との繋がりが強い地域では、赤ちゃんは個人の子どもではなく「みんな」のものとして捉えられているのでしょう。そんなことを聞くと、村社会もなかなか大変だと感じますが、それも絆の強さと表裏一体と言えるかもしれませんね。

Ambassadorのプロフィール

Natsumizo

1985年、宮城県女川町生まれ、青森県育ち。日本大学藝術学部映画学科在学時に、ドキュメンタリー制作のためバングラデシュを訪れる。卒業後、Documentary Japanに務める。2014年、学生時代作品への心残りや日本よりも居心地の良さを感じていたバングラデシュに暮らし始めることにし、作品テーマや自分の役目(仕事)を再び探すことに...その中で出会ったこの国の少数民族に魅力とシンパシーを感じて、彼らと共に生活していきたいと思う。ドキュメンタリー作品『One Village Rangapani』(国際平和映像祭2015 地球の歩き方賞および青年海外協力隊50周年賞受賞 http://youtu.be/BlxiN2zYmjE)、カメラ教室、クラウドファンディングや写真集『A window of Jumma』の制作などを行ってきたが、この地で映像作品制作を続け、この先は映画上映会(配給)や映画祭などの企画にも挑戦していきたいという夢を抱いている。

校舎、ついに完成!スタッフ・子どもたちとの夢が、また走り出す

$
0
0

ここ数回、開校してからの学校運営について書いてきました。今回は、運営と同時進行している校舎の建設について書いていきます。かつて勃発した、校舎の建設問題の続編です。

■過去記事(涙の土地問題 2部作)

1)青年校長5年目。土地の売買で起こったトラブル(リンク)

2)青年校長5年目。焦りまくった土地問題の行方は......(リンク)

建設資材は大丈夫?

開校後、運営でバタバタとしているところではありますが、土地問題によって遅れてしまった校舎の建設も同時に進めなければいけません。土地の売買契約が終わり、新校舎の工事請負契約も済みいよいよ着工です(設計書類は事前に日本の建築士に見ていただきました)。

建設開始から注意した点は、建設資材のチェックです。

仕様書に記載されている資材よりも安価なものを実際に使用したり、予定していた太さの鉄骨よりも細いものを使用したりすることで費用を浮かせて利益にする業者が、バングラデシュにはたまにいると聞いていたので、それを未然に防ぐために日々確認をしました。

やりすぎだと思われるかもしれませんね。でも、ちょうど私たちの学校建設開始と同じ頃の2013年4月、ダッカ近郊で8階建てビルが倒壊する事故が起こっていたのです。実際に近くで事故が起きている現状から、ここは譲れませんでした。

確かに、毎日運ばれてくるセメントやブロックの型番号から鉄骨の太さ、本数に至るまですべて確認する作業は楽なものではありませんでしたが、生徒やスタッフの安全を考えると、これは必要不可欠な作業だったと思っています。

校舎に想いを...

建設も順調に進み、基礎ができ、柱が立ち始めた頃のことです。ある現地教職員の声掛けから、教職員みんなで放課後に新校舎の建設状況を見に行くことになりました。

校舎はまだ形にもなっておらず、基礎から鉄骨がむき出しになっている状態です。みんなで建設状況を見ながら、たわいもない話をしてきれいな夕焼けを見たのを覚えています。

その夜、ある現地教員の、フェイスブックの書き込みを目にしました。建設途中の写真と共に書かれていたのは、「これらの柱は単なる建物の柱でない。子どもたちの夢の柱です」という言葉でした。

まさかこんなことを現地教員が想ってくれていたとは......! 予想外で、胸がとても熱くなりました。

当時、私たちはまだ一学年ぶんの生徒しか受け入れておらず、仮校舎で授業を行っていたために職場環境は決して良いといえるものではありませんでした。生徒や教職員に対しても、着工が遅れてしまったことで迷惑をかけてしまい申し訳ない気持ちが私にはありました。そんな矢先に、現地教員の想いをこのフェイスブックを通して知ったのです。

彼らは私たちを信じてついて来てくれて、この学校・校舎に夢・希望をもって働いている。少しキザな言葉ですが、想いをズバッと表現するベンガル人が私は好きですね。これを機に、この新校舎にかける私の想いもより大きなものとなりました。

ようやく竣工!!

日々建設現場に足を運んでいたこともあり、特に大きな問題もなく建設は進みました。

そして2013年12月、とうとう竣工。土地の問題などいろいろありましたが、無事2階建て校舎ができました。将来的には生徒人数増加とともに教室数を増やし5階まで建て増しする予定です。

この時、ようやくスタートラインに立つことができました。そしてここからが、本当の始まりだったのです。

Ambassadorのプロフィール

K.Furusawa

宮城県仙台市出身。大学在学中はプロキックボクサーとして活躍。卒業後は日本の私学教員をやりながらタイ、カンボジア、ネパール、ミャンマーなどアジアの教育支援に携わる。その後、とある公益財団法人の仕事としてバングラデシュでモデル校となる学校建設・運営を任される。現在は生徒数約800名の学校をバングラデシュで運営中。


若者よ、リスクを取れ!セブ島進出編

$
0
0

まあよんぶんたん!常夏のセブ島で心もカラダもすくすく成長中のShinyaです。今回は当時ペーペーだった22歳の僕が、どんな奇跡的な出会いと数%のイケメンパワーでセブ島にて仕事しながら生活できるまでに至ったのか。体験談としてしたためました。

「若者よ、リスクを取れ!」ということで、はい。取ってきました。リスク!!

やはりこの歳で海外且つやりたいことがやれる環境を手にいれるために、多少のリスクはなんのそのでこの数年全力疾走してきました。

セブ生活を手に入れるまでに僕がリスクを取る選択をしたのは2年の間に4回。

1回目:大学休学を選んだとき

2回目:兵庫 東京へ出ることを選んだとき

3回目:むきゅう(無給・無休)でも経験を積むを選んだとき

4回目:時給2000円フリーランス生活を捨て無休のセブ生活を選んだとき

セブ行きのチケットを掴んだ当時の僕は、大学を休学し東京でプログラミング武者修行中。

東京に出て何度かの挫折と甘酸っぱい青春を繰り返し、遠隔でできる開発案件を平均時給2000円でやれる程度にはなんとか成長し、約1年かけピッカピカのフリーランスエンジニア1年生デビューを果たしました。

「よっしゃ!これでどこでも稼げるはず。海外行くべ海外!ノマドのまど!」とミーハーだった僕はPCひとつでどこでも生きてけるノマドライフに憧れて海外行きを決意しました。

ただこんだけ軽いノリだと対外的にもどう説明したらいいのかと、せめて親を納得させられるだけの理由を考えました。

①今後グローバルにエンジニアとして活動したい

②プログラミングの世界でテッペン目指すにも英語力が必要

③当時の僕の英語力は中学校赤点レベル。。

の3本立てで理由を後付けし、周りも応援してくれるようになったので、いざ!Amazonさん!

WEBでぽちぽちとノマドライフなバックパック必至アイテムを購入していきました。

納得感ありすぎる理由に自分自身も本当にそうだと 思い込み マインドセットし俄然海外へのモチベーションが高まりつつ、大きなリュックサックやくるくる巻いて担げるテント、旅の必需品サバイバルナイフなどが次々と実家に届いていたころ、奇跡的な出会いがありました。

"立ち上げからジョインし現在も一緒に世界へ向けビジネスを展開しているネクシード代表の高原さん"

きっかけはFacebook。

当時エンジニアとしてデビューしたばかりで、もっともっといろんな繋がりを作ろうとFacebookにエンジニアとしての活動なんかを投稿していました。

そんな中、「物価が安くて常夏で英語圏の国に行って英語学びながらエンジニアします!」といった投稿を見た友人伝いに紹介されたのが今のセブライフの始まりでした。

僕 幼馴染 当時の彼女 前職インターン仲間(ネクシードの立ち上げメンバー)

という6次の隔たりを体現するかのような繋がりを見せた結果、今もっとも夢中になれる環境にいられるんだな。人との繋がりって大事だな。と今書いてて改めて感じています。

そんなこんなで、プログラミングのプの字も知らない代表と計7、8回(多すぎて覚えてない)にも及ぶ面接をなんとか通過し、セブ行きのチケットを手に入れました。

当時の僕のスキルセットといえば↓

英語力 :1

プログラミング力:3

ビジネス力 :1

努力 :10

※10段階評価

まだまだ駆け出しの学生で、メールのお作法?PDCAサイクル?How are you?!といった具合。

ただ、成長したい!プログラミングでどこででも生きていきたいという気持ちは人一倍強く、そのための努力は身を粉にしてでもやってきました。

また、元々は猪突猛進タイプ。与えられたミッションはとりあえず時間を最大限かけとにかく行動でなんとかしてきたのですが、このころから効率・やり方を意識するようになってました。(プログラミングの影響)

来るビジネスの場で歴戦の猛者たちと渡り合っていくため、脳みそのバージョンをアップグレードし、「とにかくやる自分Ver 1.0 考えながらやる自分Ver 2.0」へと移行中でもあったため、そういった点も踏まえ伸びしろを評価されたのだと思っています。

脳みそアップグレードの話は設計図にしたおすすめの本や仕事・私生活での活かし方・変化なども是非紹介したいのですが、これまた長くなるので今回は止めときます。今度にしましょう。

さて、僕はここでひとつ、リスクを取りました。

ネクシードとの最初の契約は、「無休で3ヶ月。その先は成果次第」でした。

当たり前です。当時まだ学生でスキルセットもまだまだだった僕。まずは信頼と実績を積む必要がありましたから。

ただそうなると、今まで積み上げてきて、やっとの思いで勝ち取った時給2000円。しかも趣味といってもいいくらい大好きなプログラミングを毎日やっているだけでお金がはいってくる状況。この環境を捨てて、無休で海外の地、まだ会社もしっかり立ち上がっていないような状況を選ぶことになる。

普通なら少しは考えるのかな。せっかく苦労して手にした夢のフリーランス。今ここで捨てるべきなのか?って。

代表との最後の面接後、合格をもらいその場で航空券を取得し、2日後にはセブ島に降り立っていました。

はい、即決即答です。

たかだか1年2年頑張って獲得できた環境なら、またいつでも手に入れられると。後悔のないよう、よりワクワクする選択を考えたとき、セブ島!となりました。

STEP BY STEP

さて、ここまででセブ進出の経緯を僭越ながらしたためてきましたが、こういった詳細を話したことがない方からはよく「どうやってプログラミング初心者で何もないところからセブ島でエンジニアとして働けたんですか?」と聞かれます。

この質問から僕が感じ取るものはいつも決まって「なんか裏技的なもの期待してるな」です。開始数分でラスボスのクッパステージまでいけちゃうスーファミマリオ的な裏技が知りたい。そんな感情を。

わかります。

できれば最短で、最速で人よりも早くそこに辿り着きたいという気持ち。

でも、考えてみてください。

その裏技をキメるために、一体全体何万回の失敗をマリオは繰り返してきたでしょうか。たぶんはじめは一面から正規のルートを通って、戦闘力0に等しいクリボーにすらビビりながら、失敗のひとつひとつから成功法を学習し、毎日クリアを夢見ながら、次なる試練にワクワクしながら、そのプロセスを楽しみながら全クリという目標達成へ向け進んできたのではないでしょうか?

時には母親にスーファミ本体を没収され、時には1つ下の弟が電源コンセントに足を引っ掛けログがリセットされた苦い想い出。。

少し話がノスタルジックになってきましたので本題に戻ります。

要するに、一発でラスボス(目標)までいけるような裏技なんて僕は知らないです。

知っているのは一歩一歩、目の前のステージをクリアすること。

ワクワクしながら、失敗から学ぶことやクリアしたときの喜びすべての経験を脳に焼き付けながら成長し、その先にクッパがいること。

今までの経験値のすべてを駆使してクッパを倒した先にあるハッピーエンドだからこそやりがいがあること。

初心者 海外フリーランスエンジニア

ではなく、

初心者 武者修行 無休インターン 日本でフリーランス 海外で無休インターン 海外でエンジニア

であったこと。

大事なのはSTEP BY STEPで、自分の成長を楽しみながら日々全力で取り組むことだと思います。

その過程で入ってくるお金や生活水準が下がることなんて、そんなの長い人生で見た時、誤差も誤差だと思うんです。

そういったものにはさくっと見切りをつけて、リスクを取って他より先に一歩踏み出せるかどうかが、僕をここまで連れてきてくれたんだと思います。

なので、みなさん。もし目の前にふたつ以上人生の選択肢があり、悩んだ際は是非リスクを恐れず、ワクワクするほうを選んで後悔のない人生にしてください。

いいじゃないですか。一度や二度の失敗なんて。

リスクを取らず、先が見えた選択をして、結局つまらなくて、30,40歳のなったときにあっちの道を選んどけばよかったって思うよりは。

死ぬ以外はかすり傷!ちっちゃいことは気にせず大きなってこい!

セブに発つ前に父に言われた一言。

これからも、死ぬかもしれないギリギリの選択をしながら、リスクをとって成長していきましょう!

おしまい。

ありがとうございました。

Ambassadorのプロフィール

Shinya Hirai

1990年生まれ、兵庫県出身。大学休学中に独学でフリーランスエンジニアに。WiFiとPCさえ揃えば世界中どこででも仕事ができる環境の中、さらなるスキルアップの場を探していた際にフィリピン・セブ島で語学スクールを運営するネクシードと出会い海外進出。 自身の経験からプログラミング学習難易度の高さを強く感じ、多くの人に最適なプログラミング学習環境を提供すべくアジア初のIT×英語スクール「エンジニア留学」を立ち上げる。

彼氏にもらった最悪のプレゼント【これでいいの20代?】

$
0
0

私の本当の名前は鈴木綾ではない。

かっこいいペンネームを考えようと思ったけど、ごく普通のありふれた名前にした。

22歳の上京、シェアハウス暮らし、彼氏との関係、働く女性の話。この連載で紹介する話はすべて実話にもとづいている。

個人が特定されるのを避けるため、小説として書いた。

もしかしたら、あなたも同じような経験を目の当たりにしたかもしれない。

ありふれた女性の、ちょっと変わった人生経験を書いてみた。

◇◇◇

彼氏の太郎が「特別なデート」だよと言って、ある金曜日にセルリアンタワーを予約してくれた。その日は、すこし暖かくなってきた春先だった。

2人がまだ仲良くしていた頃だった。お互いにいい感じに仕事が忙しくて、週に1、2回しか会えなかったけど、限られたデートの時間を楽しくすごした。日々がそうやってシルクのようにすらすらと流れた。

私はその日、定時に帰れるように頑張って仕事を終わらせてホテルに向かった。 

仕事が忙しい太郎がつくまであと何時間もあった。チェックインして、32階の部屋に上がった。窓の外で点滅している渋谷のネオンが目の前に広がっていた。首都高が高層ビルの谷間を川のように蛇行しながら流れていた。

                           

どんなにごちゃごちゃしている街でも上から見ると大自然の風景のように穏やかに見える。ほぼ首都高の下に住んでいた私はそういう豪華な風景を見ることは滅多になかったので、バスローブに着替えて窓辺に座って、ぼんやり外の景色を見ながら太郎を待った。                 

夜が深まるにつれて、渋谷がさらに眩しく光り、車と人の通りが多くなっていくのを、私は分厚いガラスを通じて消音で眺めた。

太郎は9時ぐらいにようやく部屋のドアをノックした。私は立ち上がって大好きな彼氏をハグした。                         

私たちの週末がようやく始まった!

何も喋らずにセックスして、黒い大理石の浴室で別々にシャワーを浴びた。ドレッサーの前で髪の毛をとかしながら、私は太郎に今日の仕事はどうだったか聞いた。               

突然、太郎が後ろから近づいて、彼が私に華奢なネックレスをつけたのを目の前の鏡で見た。映画のワンシーンのようだった。

「はい。綾へのプ・レ・ゼ・ン・ト。」と彼が「プレゼント」を子供っぽく発音した。

ネックレスを手にとって確認した。一粒ダイヤモンドが真正面からハートの形に見えるように銀の塊にはめ込まれて繊細な銀色のチェーンについていた。洗面台の柔らかい光でちょっとだけ光った。

このプレゼントを見て私はがっかりした。

私はジュエリーを全く身につけない。ダイヤモンドを欲しがるような女性じゃない。愛情表現として宝石を求める女性じゃない。                            

半年以上も付き合っていたのに太郎はまだ私の好みを分からなかった? それともこれはもともとは他の女性に上げるつもりだった? まさかそんなこと。 

              

太郎はすぐに、私がためらっていることに気づいた。

「好きじゃない?」と鏡を見ていた私の向きを変えさせ、私の肩を持って私の目を覗き込むように見ながら言った。「好きじゃない?」

「いいえいいえいいえ、今ちょっとびっくりしただけ。大好きだよ!本当にありがとう!本当に素敵なプレゼント!」 

私は必死に彼を安心させようとした。

「これをつけると、みんなあやには彼氏がいるってわかるね」  

             

私の一言で、太郎が落ち着いたようだ。

「うん、僕があやにプレゼントしたってみんなわかるね。僕のフィアンセだとみんなわかる」

太郎は話し続けた。

「このダイヤモンドは特別だよ。僕は今年で入社10年目だからもらえた。」

なるほど。そう言われたらこのダイヤモンドを見たことある、と思った。

太郎が勤めていた一流企業は永年勤続表彰制度を設けていた。

入社10年になると、いつもより一週間多い有休休暇と記念品がもらえる、と太郎が数ヶ月前に話したのを思い出した。

記念品のパンフレットも見せられた。

継続勤務10年の社員は二人のグアム旅行・高級ワイン・ダイヤモンドネックレス・またはルンバの中から希望するものが選べた。(正直いうと、そのなかでルンバが私にとって一番良さそうな感じだったが。)

初めて太郎からその話を聞いた時、会社が社員にそういう表彰をするなんて信じられなかった。

社員がワインを買えたり旅行したりできるように、会社は給料を払っているんじゃないの?

太郎の会社の、そういうところがおかしかった。というよりも、彼の会社のすべてがおかしかった。私はその会社が大嫌いだった。長時間労働、パワハラ、実力ない人でも昇進できる、日本企業の悪いところばかりをわざわざ集めているような会社だった。

ダイヤモンドのネックレスをもらったときに思った。太郎と結婚すれば、太郎の会社と結婚しなければいけない。そのブラック企業が選んだダイヤモンドネックレスをずっと身につけなければいけない。

あとからわかったけど、そのネックレスは「呪いのネックレス」だった。チェーンがむやみに長かったし、うまく長さを調整できなかったし、すぐに絡まってしまってなかなかほどけなかった。いいチェーン、例えば母が昔買ってくれたものは、いっぱいいじっても決して絡まない。ダイヤモンドは高いけどチェーンは安物。さすが会社からの記念品。

最悪のプレゼントは一方的なプレゼントだと思う。私が太郎にあげたプレゼントは、いつも彼は何を必要としているか、彼は何が好きか、をよく考えた上で買ったものだ。

大学時代にバングルをつけていたけどなくしちゃった、と太郎が言ったから、一所懸命探してようやく原宿のお店に彼にとても似合うバングルを見つけた。オフ用のカバンがなかったから買ってあげた。二人の写真や一緒に見に行った映画と展示会のチケットを集めてスクラップブックを作ってあげた。太郎の好み、太郎は何に喜ぶか、一所懸命知ろうとして、それにマッチしたプレゼントを選んだ。

プレゼントって、そういうものじゃない?

太郎にまた一つバッテンがついた。

サイボウズ式:ゲームに目覚めた4歳の子ども、苦手な運動会でまさかのBダッシュ?

調査でわかった 最高のセックスが経験できるのは「60代」らしい

$
0
0

パートナーとの関係に大きな影響を与えるセックス。年齢を重ねたら、昔ほどセックスを楽しめなくなるのではと心配かもしれない。

でも、恋愛・結婚マッチングサイト「Match.com」の調査によると、「本当に満足できるセックス」を最も楽しんでいるのは若い世代ではなかった。

驚くなかれ、それは彼らの親世代だ。最高のセックスを経験した年齢の平均は、結婚していない女性で66歳。男性では64歳だった。

調査は、世代、人種、収入レベルが違う、アメリカの独身者5000人が対象。

セックスセラピストで女性のためのオンライン・オーガズムコースを設立したヴァネッサ・マリーン氏によると、セックスを本当に楽しめるようになるのは、「体型が全ての性的魅力を決めるわけではない」とわかった後だ。ただ残念なことに、それを学ぶのに多くの人は何年もかかるという。マリーン氏はこう語る。

「20代、30代のクライアントにとって、セックスを楽しめない大きな要因は自意識です。若い世代は、自分の体型のことで頭がいっぱいでセックスの中身やパートナーが何を望んでいるかを考える余裕がありません。そうすると、セックスの回数は減ってしまいます。ただ、自意識というものは、20〜30代でも大幅に下がります」

高齢になるとセックスを楽しめなくなると心配する人がいるのは、なぜだろうか?

一つには、体の変化がある、とセックス・セラピストで作家セレステ・ハーシュマン氏は言う。

中年になると、私たちの体は若いころより張りがなくなる。また、女性は痛みを感じやすくなったり、乾燥しやすくなったりする場合もある。閉経もある。男性の多くは、早漏や勃起障害を抱えるようになる。

しかし、セックスを若い頃と同じくらいもしくはそれ以上に楽しむ方法はあるという。

「若い時のセックスは、前戯も幻想も必要ない、短時間でできるものだったかもしれません。でも挿入だけが目的にならなければ、セックスはもっとクリエイティブになり、セックス自体がもっと良くなります」と、ハーシュマン氏は語る。

オーガズムと挿入だけがセックスの目的でなくなった時こそ、変革の時だ。年齢は関係ない。ハーシュマン氏のあるクライアントの最高のセックスの相手は、勃起不全のパートナーだったという。

「彼らは付き合い初めてから何年も経ってから、人生で最高のオーガズムを経験したというのです。男性にとっても、挿入なしでの素晴らしいセックスでした」

ロサンゼルスのセックスセラピスト、キンバリー・レズニック・アンダーソン氏は、50歳を過ぎてからのセックスに満足できる理由を、「年齢を重ねるにつれて、セックスに求められる基準や役割に従おうとする気持ちが少なくなるから」と話す。特に、20代〜30代、家族をつくるためのパートナーを探してきた女性の場合はそういえるという。

「女性は年齢を重ねるにつれ、良い意味で自分を大切にした生き方をするようになります。妊娠を心配しなくなり、子どもが突然部屋に入ってくる心配もなくなる。加えて、多くの女性が自分の体に満足できるようになり、セックスの満足感を味わうべきだと感じるようになります」とレズニック・アンダーソン氏はいう。

同氏の説明によると、女性(男性も)は50歳を超えてようやく、「自分の性的関心を自分で決められる」ようになり、その恩恵を受ける。最近はセックスに対して近代的な見方が進み、女性は30〜40年前ではできなかったようなやり方でに自分の性的関心を楽しめるようになっている。

レズニック・アンダーソン氏は、あるクライアントのエピソードを話してくれた。

「40年間オーガズムを演じてきた63歳のクライアントは、自分の体のことをようやく理解するようになり、何が彼女にとって気持ちが良いかがわかるようになりました」

「65歳や70歳のセックスは、気楽で簡単なものに変わります。なぜならパフォーマンスと自分を売り込む手段だったセックスが、喜びとつながりをつくるものに変わるからです」

若い世代にも、先輩たちと同じような性的自信を身につけて欲しい、とハーシュマン氏は言う。

「もっと自分の性的関心や喜びについて、若い時から知って欲しいと思います。どんなセックスをしたいのかを気軽に話せる関係を、パートナーと築いて欲しい。セックスに対する恥ずかしさや決めつけが減れば、全ての年代の人たちが、もっと素晴らしいセックスが楽しめるようになります」

家族のかたち」という言葉を聞いて、あなたの頭にを浮かぶのはどんな景色ですか?

お父さんとお母さん? きょうだい? シングルぺアレント? 同性のパートナー? それとも、ペット?

人生の数だけ家族のかたちがあります。ハフポスト日本版ライフスタイルの「家族のかたち」は、そんな現代のさまざまな家族について語る場所です。

あなたの「家族のかたち」を、ストーリーや写真で伝えてください。 #家族のかたち#家族のこと教えて も用意しました。family@huffingtonpost.jp もお待ちしています。こちらから投稿を募集しています。

雨にいら立ったフランスの市長、前代未聞の条例を発表

$
0
0
(イメージ画像)

「日中の雨量はすでに十分であることを鑑み......」

2017年12月から1月の期間、フランスでは、59年ぶりに最大降水量を更新していた

西部の地、ヴァンデ県・シャランも例外ではなかった。市長のセルジュ・ロンドー氏は、連日の雨や雪にうんざりしていた。本当にうんざりしていた。

そこで何を思ったかこの市長、市の公式Twitterアカウント上で、ある条例を発表した。

なんとその条例は――「月曜日から日曜日の昼間の日照」を義務づけるものだ。

もちろん冗談なのだが、形式はホンモノそっくりで、署名や公印まで付す気合の入れようである。

日照の義務に関する市の条例

しかし市長も太っ腹で、1週間のうち3晩だけは「地下水の水位を保つため」、雨が降ってもよいとしている。

我々にできるのは、条例の施行を担当する市の職員や、県憲兵隊の指揮官、市警察の責任者の健闘を祈ることだけだ。

もしかすると彼らに、仕事がふってくるかもしれないのだから......。

ハフポスト・フランス版より翻訳・加筆しました。

Viewing all 63970 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>