》【北朝鮮・墓参紀行】その1「10回目の墓参団、平壌に到着」はこちら
【9月16日】
首都・平壌から国内線の飛行機に乗る。この日はアジア大会用に韓国・仁川への特別機が仕立てられていた。
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そこから約1時間、まるで農場の真ん中に滑走路があるような漁郎(オラン)の空港に降り立った。
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さらに小型バスで計約5時間、北へ走る。舗装らしい舗装がされているのは大都市の中心部だけ。荒波を行く船のように、バスは上下左右に激しく揺れた。すれ違うのは自転車と、牛車と、たまに荷台に人を乗せたトラック。
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【9月17日】
中朝国境の町・会寧(フェリョン)で一泊。ここは故・金正日総書記の母、金正淑氏が生まれた街で、街の中心部に大きな銅像と再現された生家がある。
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さらに約1時間、国境沿いを走る。ときおり中国の携帯の電波が入った。山の中の踏切で、一行はバスを降りた。
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山の中を中国へ線路が続く。横浜市在住の遠藤功一さん(72)は、鉄道員だった父・敏(さとし)さんを思い「産みの父の苦しみを思うと、何ともやりきれない」と天を仰いだ。生を受けた鉄道官舎までは「さらに歩いて2時間、車は入れない。山を越えないといけない」と北朝鮮の担当者に説明され「ここまでで結構です。ありがとうございました」と頭を下げた。
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1945年8月ごろ、ソ連が攻めてくるとの噂が広がっていた。敏さんは「一足先に帰ってろ。受け持ちの駅の貨物などを整理して帰るから」と母に言い残し、残りの家族3人は福島に引き揚げた。しかし敏さんは500km以上南にある咸興(ハムン)の収容所に入れられ、1946年1月に発疹チフスで亡くなったと、元部下からの手紙で知らされた。3歳だった功一さんに当時の記憶はない。母は一切、引き揚げ時の話をしようとしなかった。
「当時の建物でも残っていればよかったが、道がなくなってしまうんだから、これで整理をつけたい」。
敏さんは生前、日本に帰省すると「内地の線路は幅が狭い。早く朝鮮に帰りたい」「朝鮮の鉄道は中国につながっている」としばしば周囲に語っていたという。父の骨壺に入れたいと、線路の敷石を数個拾った。
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「69年は長いなんてもんじゃなかった。往来が簡単にできるよう、国交正常化すべきだ。そのために日朝両政府は大いに机をはさんでけんかすべきなんだ」
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会寧からさらに南下して道路を走ること2時間。港町・清津(チョンジン)に着いた。1959年12月、在日朝鮮人を乗せた帰国事業の船が入船したことで知られる街だ。戦前は製鉄所など工業が栄え、10万人の日本人がいたとも言われる。今も工業の街だ。
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清津の港が一望できる高抹山中腹の展望台で、京都市在住の中井将隆さん(77)は9月17日午後、位牌や家族の写真をリュックから取り出し、山の頂上に向かって線香を上げ、手を合わせた。途中、草むらをかき分けて斜面を登り、持参した酒を供えた。
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「父もこの景色を見たんだなあ、とバスの中で涙が出てきた。事前に調べて想像していたいた地形と、おおよそ一致していた。礼拝ができたことは何よりうれしい」
北朝鮮に住んでいたことはない。京都市職員だった父・竹一さん(当時37)は1945年3月、3度目の徴兵で陸軍「144警備大隊」に配属され、清津に駐屯していた。終戦の日の8月15日、高抹山で旧ソ連との戦闘中に亡くなったと、のちに戦死公報が届いた。遺骨や遺品は返って来なかった。「その戦闘後に行方不明になったから、戦死とされたんです。相手は圧倒的な武力だったと聞いています」。中井さんが調べた記録では、同じ日に同じ部隊で325人が命を落としたという。
当時、小学校の1年生だった将隆さんは、父の出征の日を覚えている。学芸会の日で張り切っている朝、「頑張ってきいや」と言われたのが最後の会話だった。1945年の6月ごろまでは手紙が来ていた。子どもたちに宛てたカタカナのはがきや、母に「絶対元気で帰る」と書いた手紙。「亡くなったのは、よりによって戦争が終わった日ですよ。無念だったろうなあ。どんな気持ちだったろう」
「夫は未帰還者だから」と戦死公報の受け取りを拒んでいた母も終戦の6年後に死亡し、3歳年上の姉と将隆さんの2人で戦後を生き抜いてきた。病床にふせる姉と2人で、ここを訪れたつもりでいる。「父の倍以上長生きさせてもらった。去年、初孫が生まれたことなどを報告しました」
父がどんなところで死んだのか、いちど見てみたいと思い続けてきた。「こんな国交断絶の世界ですから躊躇してたんですが、今は日朝の交渉で道が開けて来ているみたい。いずれにせよ政治情勢ですぐ変わってしまうお国柄ですから、行けるうちに行っておこう」と思い立ち、墓参団に参加した。
「戦争したらあきません。しないように抑止力を持とうという考えは間違いや思いますわ。武器を持ったら相手も必ず持つんですから、平和や文化の交流が大事と違いますか。紛争にならない状況をつくることが大事じゃないですか。何のために私の父とかが死んだのか、忘れてはならないと思います」
高秣山を、下からも眺めた。海岸線には電線が張り巡らされている。「電流注意」と書かれていたが、うっかり触ったものの電気は流れていなかった。
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【9月16日】
首都・平壌から国内線の飛行機に乗る。この日はアジア大会用に韓国・仁川への特別機が仕立てられていた。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249772_free.jpg?1411148108849)
そこから約1時間、まるで農場の真ん中に滑走路があるような漁郎(オラン)の空港に降り立った。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249806_free.jpg?1411148109100)
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249808_free.jpg?1411148109124)
さらに小型バスで計約5時間、北へ走る。舗装らしい舗装がされているのは大都市の中心部だけ。荒波を行く船のように、バスは上下左右に激しく揺れた。すれ違うのは自転車と、牛車と、たまに荷台に人を乗せたトラック。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249796_free.jpg?1411148109001)
【9月17日】
中朝国境の町・会寧(フェリョン)で一泊。ここは故・金正日総書記の母、金正淑氏が生まれた街で、街の中心部に大きな銅像と再現された生家がある。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249812_free.jpg?1411148109167)
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249814_free.jpg?1411148109171)
さらに約1時間、国境沿いを走る。ときおり中国の携帯の電波が入った。山の中の踏切で、一行はバスを降りた。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4250002_free.jpg?1411150786161)
山の中を中国へ線路が続く。横浜市在住の遠藤功一さん(72)は、鉄道員だった父・敏(さとし)さんを思い「産みの父の苦しみを思うと、何ともやりきれない」と天を仰いだ。生を受けた鉄道官舎までは「さらに歩いて2時間、車は入れない。山を越えないといけない」と北朝鮮の担当者に説明され「ここまでで結構です。ありがとうございました」と頭を下げた。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249824_free.jpg?1411148109183)
1945年8月ごろ、ソ連が攻めてくるとの噂が広がっていた。敏さんは「一足先に帰ってろ。受け持ちの駅の貨物などを整理して帰るから」と母に言い残し、残りの家族3人は福島に引き揚げた。しかし敏さんは500km以上南にある咸興(ハムン)の収容所に入れられ、1946年1月に発疹チフスで亡くなったと、元部下からの手紙で知らされた。3歳だった功一さんに当時の記憶はない。母は一切、引き揚げ時の話をしようとしなかった。
「当時の建物でも残っていればよかったが、道がなくなってしまうんだから、これで整理をつけたい」。
敏さんは生前、日本に帰省すると「内地の線路は幅が狭い。早く朝鮮に帰りたい」「朝鮮の鉄道は中国につながっている」としばしば周囲に語っていたという。父の骨壺に入れたいと、線路の敷石を数個拾った。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249826_free.jpg?1411148109186)
「69年は長いなんてもんじゃなかった。往来が簡単にできるよう、国交正常化すべきだ。そのために日朝両政府は大いに机をはさんでけんかすべきなんだ」
会寧からさらに南下して道路を走ること2時間。港町・清津(チョンジン)に着いた。1959年12月、在日朝鮮人を乗せた帰国事業の船が入船したことで知られる街だ。戦前は製鉄所など工業が栄え、10万人の日本人がいたとも言われる。今も工業の街だ。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249866_free.jpg?1411148109222)
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249810_free.jpg?1411148109144)
清津の港が一望できる高抹山中腹の展望台で、京都市在住の中井将隆さん(77)は9月17日午後、位牌や家族の写真をリュックから取り出し、山の頂上に向かって線香を上げ、手を合わせた。途中、草むらをかき分けて斜面を登り、持参した酒を供えた。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249868_free.jpg?1411148109223)
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249870_free.jpg?1411148109224)
「父もこの景色を見たんだなあ、とバスの中で涙が出てきた。事前に調べて想像していたいた地形と、おおよそ一致していた。礼拝ができたことは何よりうれしい」
北朝鮮に住んでいたことはない。京都市職員だった父・竹一さん(当時37)は1945年3月、3度目の徴兵で陸軍「144警備大隊」に配属され、清津に駐屯していた。終戦の日の8月15日、高抹山で旧ソ連との戦闘中に亡くなったと、のちに戦死公報が届いた。遺骨や遺品は返って来なかった。「その戦闘後に行方不明になったから、戦死とされたんです。相手は圧倒的な武力だったと聞いています」。中井さんが調べた記録では、同じ日に同じ部隊で325人が命を落としたという。
当時、小学校の1年生だった将隆さんは、父の出征の日を覚えている。学芸会の日で張り切っている朝、「頑張ってきいや」と言われたのが最後の会話だった。1945年の6月ごろまでは手紙が来ていた。子どもたちに宛てたカタカナのはがきや、母に「絶対元気で帰る」と書いた手紙。「亡くなったのは、よりによって戦争が終わった日ですよ。無念だったろうなあ。どんな気持ちだったろう」
「夫は未帰還者だから」と戦死公報の受け取りを拒んでいた母も終戦の6年後に死亡し、3歳年上の姉と将隆さんの2人で戦後を生き抜いてきた。病床にふせる姉と2人で、ここを訪れたつもりでいる。「父の倍以上長生きさせてもらった。去年、初孫が生まれたことなどを報告しました」
父がどんなところで死んだのか、いちど見てみたいと思い続けてきた。「こんな国交断絶の世界ですから躊躇してたんですが、今は日朝の交渉で道が開けて来ているみたい。いずれにせよ政治情勢ですぐ変わってしまうお国柄ですから、行けるうちに行っておこう」と思い立ち、墓参団に参加した。
「戦争したらあきません。しないように抑止力を持とうという考えは間違いや思いますわ。武器を持ったら相手も必ず持つんですから、平和や文化の交流が大事と違いますか。紛争にならない状況をつくることが大事じゃないですか。何のために私の父とかが死んだのか、忘れてはならないと思います」
高秣山を、下からも眺めた。海岸線には電線が張り巡らされている。「電流注意」と書かれていたが、うっかり触ったものの電気は流れていなかった。
![](http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/369616/slide_369616_4249876_free.jpg?1411148109227)
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